鬱感の無い悲壮感のある燃える展開の作品を見たいと思ったら結局『ドラゴンボール』だよねって話
こんにちは。夢の中でかめはめ波一回出したら二回目以降でないタイプ。MAmeeともうします。
世の中の数多くの漫画・アニメ作品達は僕たちにワクワクを与えてくれます。
時代と共に作品作りやストーリーの展開の仕方というのは変わっていくもので、近年の作品は登場人物のその背景を深堀するようにストーリーに織り込まれていて、感情移入がしやすくなっていますね。
キャラの人となりを刷り込んであるからこそ、感動や絶望、燃える場面で安心して楽しむことができるのでしょう。
そんな、日々クリエイターの方たちが試行錯誤して製作しているわけですが、僕のようなわがままなユーザーはいると思うんです。
「鬱展開は見たくない。でも背景に悲壮感を盛り込んだ方が燃える場面でさらに燃える。そんなのを見ていたい。」
もうどないせいっちゅーんですかね。贅沢な話です。
で、そんな風な「熱い場面を見たい!」って作品を絞っていくと結局『ドラゴンボール』に行き着くわけです。
『ドラゴンボール』が上記のような欲求にこたえられる所以は、生も死も超越したハチャメチャ設定と最強の男『孫悟空』のキャラクターにある気がします。
というのは名目で、ネタがないので大好きなドラゴンボールの好きな場面をただただ書き連ねていきます。
熱い場面の例を挙げていくと、まずナメック星編。説明するのも野暮ですが、知る人ぞ知る、主人公・孫悟空の親友クリリンの命を宿敵フリーザによって奪われ、その怒りによって伝説のスーパーサイヤ人へと変身を遂げる。
仲間の死の怒りによって新しい力に目覚める少年漫画の王道ともいえる展開。
長年親しんできたキャラクターが主人公の目の前で爆発四散ですよ。
鳥山あきら先生の作風でなく、今風な描写にしたらもうこれは完全なトラウマモノです。死んでも生き返れるかもしれない超設定とドラゴンボールのいい意味でリアルじゃない画風が、鬱展開にならないよううまく作用している良い例ですね。
次の例は、人造人間編です。これもあまりに有名な場面で説明不要と思うが。
孫悟空の息子、孫悟飯の底知れない潜在能力を引き出すために、目の前で仲間たちを追い詰める究極生命体セル。傷ついていく仲間たちを目の前にして怒りが沸き起こってくると共に気を高めていく悟飯だが、自身の優しさから力を爆発させられずにいた。
その様子を不敵に見つめるセルと悟飯の前に敵であった人造人間16号の頭部パーツが飛び込んできた。
頭部だけになりながらも16号は力を引き出せずにいる悟飯に助言と、自分の大好きな自然や動物たちを守ってやってくれ。と託し、セルによって頭部を踏み砕かれ機能を停止する。
その光景を目の当たりにした孫悟飯はついに怒りの限界を超え圧倒的な潜在能力が開放された。
人様の作品を勝手に文字にまとめているだけですが、書いてるだけでもう熱さがこみ上げてきます。
今まで一番強かったのは悟空で。そんな最強の男を超える存在が昔から知ってる、幼くちょいアマなご悟飯というのがいい。また、アニメでのシーンが最高で。怒りだけでなく、ドラゴンボールの覚醒シーンには珍しく、悲しみの感情もうまく出ていて熱く悲壮感のあるかなりムネアツなシーンになってます!
映画作品も素晴らしく。上記の悟飯がセルを倒した後の時間軸で。
武道大会に参加していた悟飯と仲間たちは、会場を急襲してきたボージャック率いる「ボージャック一味」によって次々と倒れていってしまう。
追い詰められながらも、地球を守るために一人必死に食らいつく悟飯。
しかし、本気を出した強敵ボージャックを前になすすべなくじわじわと痛めつけられていく。
一方、先の戦いでセルの自爆によって死んでしまった悟空は、その様子を激しい怒りをこらえながら天国から見ていた。
息子の危機にこらえきれずすでに死んでいるという禁忌を破り下界の悟飯のもとへと駆けつけ、
「おめぇだけはゆるさねぇ…!」と怒りをぶつけるようにボージャックに渾身の拳を叩きつける。
危機を脱し、疲弊した悟飯は定まらない意識の中、死んでいるはずの悟空に抱き留められる。
そんな悟飯に悟空は「甘ったれんな!おめぇが地球を守るんだ!」と、父として厳しく叱咤する。
それが夢か現実か定かではなかったが悟飯はボージャックに背を向けながらゆっくり立ち上がり、
「お父さんが、助けてくれた。そして……お前達を絶対に許すなと言っていた。僕に、地球を守れと言ってた! そして……そして、僕に甘ったれるなと言っていた!!」
高まっていく悟飯の気に呼応するように地球が揺れ、潜在能力を開放させた姿へと変身を遂げた悟飯は、聞いた悟空の言葉を全て受け取り圧倒的な力をふるっていく。
この映画は少年期の悟飯が覚醒する唯一の作品で、一人たくましく立ち向かう悟飯も、父として最強の男として威厳を見せる悟空も全部たまりません。
そんじょそこらの設定では、亡き父の幻影を見たとかなんとなく空しい感じですけど。ドラゴンボールのご都合超設定にかかれば、ネガティブな感情無く素直に熱くなれます。
最近のドラゴンボール作品はコメディの雰囲気寄りでなかなか昔の熱さは出ませんが、まぁ。
原作が完結している作品なのでお祭り作品としては中々面白いと思いますね。
でもやっぱり昔のドラゴンボールが大好きって話でした。
嗜好品・娯楽を絶つコツは、決められた『至福の時』に嗜まない事
こんにちは。吸ってたタバコはメビウス。MAmeeともうします。
酒・タバコ・ギャンブル。
世の中には様々な嗜好、娯楽があふれていて我々の人生に刺激と潤いと破滅をもたらしてくれる。
そのどれもが死ぬまで続けられるとは限らず、年月と共に身を取り巻く環境と体内の環境は変わり自分の意思と関わらずに、好きなものを絶たなくてはいけない時が来るかもしれない。
そうなった時、人間はもろく。習慣づけられたともいえる依存度を露呈する。
何度も禁欲に失敗する人は単純に依存度が高い。
つまり自分自身に与えてあげることへの慣れ。
空気のように摂取して当たり前で、ある意味生活に刺激を与えてくれる嗜好品としての本分が損なわれた状態で中毒症状をむさぼっているに過ぎない。
以上の事からわかるように、慣れとは最悪の怠惰だ。
嗜好品を絶つ準備は絶つつもりもない状態からもう始めなければならない。
これから中毒性のある嗜好品を嗜み始めようと考えている方は、辞めるその時をきちんと見据えてよく考えてほしい。
思うに、重要なのは予算を決めることや回数を制限することではなく『至福の時』に嗜まない。これに尽きると思う。
行為そのものを指した『至福の時』という事ではなく、『日常に溶け込んだ一番嗜好性を高く感じられるタイミング』に我慢するということ。
例えば、タバコであれば食事直後や宅飲み後のリラックスタイム。酒であれば休日前の仕事終わりや休日の日が高い時間帯。ギャンブルは給料日や臨時収入が入った時など。
自分の中で思うこの日この時にやりたいいきたい嗜みたい。
そのタイミングだけは休みをきちんと設ける。これを意識するとしないとでは、禁欲時の辛さはだいぶ楽になります。
禁欲を始めた時、一番心を揺さぶられるのは『至福の時』です。
もっとも空白・喪失感を感じるタイミングです。今まで時間を費やしていた分、それを絶った時何をしたらいいのかわからなくなり結局手を伸ばしてしまいます。
その悪循環の繰り返しでいつになってもやめることが出来なくなります。
逆に、強烈に欲求を駆り立てられるであろうタイミングを制御できればその忍耐は慣れに汚染された依存症など恐れるに足らないでしょう。
このシンプルな心掛けを嗜み始めから胸に置くことで、一日2箱・喫煙歴10年の僕も自然に絶つことが出来ました。
先の自分を見据えて計画的に嗜むことから始めましょう。
という話。
僕の銀牙が抜刀牙した話
こんにちは。子供の頃歯医者で拘束され地味なトラウマ。MAmeeともうします。
あれは、ある日家で夕飯を食べている時の事だ。
その日は仕事が長引き遅めの帰宅で、また嫁も出かけていたらしく同じ時間に我が家へと戻ってきた。
外で夕飯を済ませてきた嫁は帰り足でフライドチキンを僕の晩酌のつまみに買ってきてくれた。夜にフライドチキンは若干しんどいものがあるが、まぁ好きなのでありがたく頂くことにした。時間帯的にはあれだがハイボールのあてとしてはなかなか優秀で箸も酒も進む進む。
柔らかい鶏肉を咀嚼している時、遂に事件が起きた。
右側の奥歯で「がりっ!」っと感じた事のないほどの硬度のもの噛んだ感覚。一瞬舌をかんだと錯覚し身構えたが痛みは来なく、舌で探ってみると明らかに異物が。
真っ先に行き着いた答えは「異物混入や!!」
人生で初めて直面した出来事に色めき立ち、嫁に「ひふづほんひゅう!ひふづほんひゅう!!(異物混入!異物混入!!)」と騒ぎちらして色めき立ちながら異物の正体を確かめるべくティッシュへと吐き出す。
「これやばいんじゃない~?炎上案件じゃん~」などと無邪気にゲス思考を巡らせながらティッシュに吐き出した異物を改めると、それは「歯」のようなもので。さすがに衛生的にも倫理的にも気持ちが悪くテンションを程よく下げさせられた。
僕「嫁!歯!歯が入ってたよ!ほんとにこんなことあんのんな~」
「テイクアウト」「異物」「歯」「クレーム」で検索をかけ対処の仕方を調べていると嫁が。
嫁「ていうか銀のかぶせじゃん。歯石もついててやだね~、こわっ!」
ふーん、とながら作業で聞き流しつつハイボールを口に含むと何か違和感を感じた。なんとなく、30年近く付き合ってきた飲み物を口に含んだ時のいつもの感覚とは違う……これは、右の噛み合わせから流れが変わっている?無意識にその流れの方へ舌先を伸ばすと、いつも閉じているであろう噛み合わせにかなりの幅の隙間が空いている。
その瞬間思考は超速度で巡り、事態を把握した。
僕「わしの銀牙が抜刀牙しとる!!」
早とちりの気まずさと気恥ずかしさのあまりウェットに富んだ渾身のボケを叫んでしまった。
だが嫁は7歳年下。年代の違いから何を言っているのか全く分からないようで。
嫁「え、うるさっ……」
と、ものすごい温度差を食らってしまった。
(あっ、上から剥がれ落ちたんだから『砕・雷針抜刀牙』のほうだったかぁ……)
一人反省しながら、ボケの説明は恥ずかしいので置いておき異物の正体を嫁に説明する――――――
ここまで読んでくれて皆さんは、わかってる人にはわかってると思うが、銀牙は昔少年ジャンプで連載していた【銀牙-流れ星 銀-】の銀牙。簡単に言えば犬が熊倒す漫画。
抜刀牙は登場する犬たちが使う必殺技の名前。
説明しちゃったよ……。
銀牙=銀歯≒銀のかぶせ+抜け落ちた≒抜刀牙 つまり……
嫁「異物混入じゃなくて、夫の銀歯が取れて噛みこんでしまった。と……」
僕「うん。(でも、銀牙はタイトルで、『抜刀牙』使うのが「銀」だから『わしの銀が絶・天狼抜刀牙しとる!!』のがよかったか?)」
嫁「はよ歯医者行け。」
僕「はい……。(いや、銀『歯』を銀『牙』に見立てるのがなんかオシャレだし、それに『絶・天狼抜刀牙』はちょっと長いな……この2パターンには大きな溝があるな、そう。このかぶせが取れたこの歯のように。)」
嫁「銀牙がうんぬんはなんだったの?」
僕「昔ジャンプで~以下略」
嫁「好きな漫画だったんだー。」
僕「いや産まれる前に始まって終わったからよく知らない。」
嫁「なんやねん。」
僕「なんか必殺技の名前とかかっこいいから知ってる。かっこよくない?」
嫁「意味わからん。」
この感覚女性にはなかなか伝わりにくいようですね~。
世代よりも男女間でのギャップに大きな溝があるようです。
そう。このかぶせがとre以下略。
かぶせユーザーの方々もどうか急な「抜刀牙」にご注意を。
ガム・キャラメル・ハイチュウ・シゲキックス。粘着力のある食べ物はなるべく控えるよう心掛けてください。
…………え、何でフライドチキンで抜刀牙したん?
【自己流アレンジジャンクフード】汁気を失ったカレー麺の角しかない味わい
こんにちは。日清カップヌードルしょうゆ味は若干アレルギー気味。MAmeeともうします。
ジャンクフード(英: junk food)とは、栄養価のバランスを著しく欠いた調理済み食品のこと。高カロリー、高塩分だが、他の栄養素であるビタミンやミネラルや食物繊維があまり含まれない食べ物。「ジャンク」とは、英語で「がらくた」「屑」の意。
引用元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
老若男女問わず引き付ける魔力を秘めた罪悪感の塊、「ジャンクフード」。
その魔力にあらがえず罪悪感と健康志向のせめぎあいに身を落とす筆者が日々摂食している大して珍しくもない「自己流アレンジジャンクフード」をただただ語っていく記事である。
今回のメニューは、「カルボナーラ気取り風カレー麺 カレー汁を添えて」
◇日清カレーヌードルBIG 1個
◇卵 1個
◇粉チーズ 適量
◇黒コショウ 適量
◇お湯 適当
このメニューの主役となるのはもちろん「日清カレーヌードルBIG」。
BIGじゃないとだめです。日和った感じがしてジャンク感がそがれてしまいます。KINGもだめです。そこが超えてはならない一線だからです。
このカレーヌードル、これ単体だけでもフタを開けると同時に目に飛び込んでくる大量のカレーフレーバーの粉!ただお湯を入れただけではほとんど溶け切らない強情者。一般市場に出回る既製品のくせにもうこの時点でジャンク感がぶっちぎっています。かなりクレイジーですね~。健康志向の方はまず食べるのを避けるでしょう(個人の意見)。
こいつをさらに危険指数までジャンク感をぶち上げていきます。
調理法は簡単。まずお湯を沸かします。
沸騰するのを待つ間にふたを開け中身の「ポテト」「謎肉」「カレーの粉」を1/3ほどお椀に移しておきます。
この時決して粉を出し過ぎないよう注意してください。
常識的な分配にしてしまうとたちまち万人受けする過度の内容な仕上がりになってしまいます。
お湯が沸いたら麺が浮いて浸る程度まで入れフタをします。(線より下)お湯を入れてから待つ時間は1分。
この待ち時間に、卵を取り出し、黄身と白身を分けます。使うのは黄身のみです。
1分経ったら、具材を移しておいたお椀にカップ麺の汁を全部入れお椀の中身を軽くかき混ぜます。
汁が空になったカップ麺に先ほど分けておいた卵の黄身を投入。
溶け切っていない凶暴なカレー粉と共に下から掘り出すように混ぜ。
最後に粉チーズ、黒コショウをお好みでかければ……
「カルボナーラ気取り風カレー麺 カレー汁を添えて」の完成です。
ただでさえ体に優しい成分を見つける方が難しいカレーヌードルに少量のお湯での調理に卵とチーズで、「暴虐の濃い口」「忍び寄るコレステロール」「戦慄の乳脂肪分」この三つの三重奏により恐ろしいまでのジャンクテイストにさらなる進化を遂げます。
ひとたび口に入れれば濃厚で粗雑なカレーの風味が鼻を突き抜け、衝撃なまでの味の濃さが舌をえぐり、それらを余すとこなくからめとった、固めの縮れた揚げ麺が飲み込むのを阻止しようと強烈なのどの渇きを促してきます。
そしてそれらを和らげるリセットウォーターの如くカレー汁に手を伸ばせば、落差の魔力か思いのほか優しくちょうどいい口当たりで、麺と汁のシャトルランになる事必死。「食後2時間は寝てはならない」という普段気にもとめない推奨されている一般的な教えを意識せざるをえないほどの罪悪感。
こいつにもう一足しして生ハムとかで巻き始めたらもうそれは末期。
和らぎを忘れたジャンクフードの足し算の猛襲。
『ひどい食生活してるだろ……?既婚者なんだぜ?これ……』
僕みたいに嫁のつくってくれたご飯の後にこんなの作って食べると絶対ぶっ飛ばされますのでご注意ください。
この食べ方を教えた漫画「華麗なる食卓」の罪は重い。
「いや自己流じゃないんかい!」というツッコミはスルーしていくスタイル。
権利とは、発信者が民衆に同意を求めた時に生まれるもの。
人によっては一度手を出したらもう元には戻れないのでお試しの際は自己責任で。
自分の子供に豊かな想像力と表現力と自信を与えたいという気持ち
こんにちは。7歳くらいの頃ラジオをバラバラに分解して怒られた記憶がある。MAmeeともうします。
ここ数年、近年代の若者たちは「ゆとり世代」というレッテルを貼られ、ひとくくりに「想像力が貧相」「表現力に乏しい」「やる気と自信がない」このような評価を受けがちです。
そんな世論の評価に対して、僕が「ゆとり世代」に思う事は「世代じゃなくてお前個人が悪い」、というスタンスを取っていました。
世代のせいでなく自分の「個」を培ってきた自分自身が悪い。
子供を授かるまではそう思っていました。
今、3歳の子供と過ごす中で時々ふと不安になります、
「この子が大人になるにつれて他人からの評価が低いものになってしまうこと。そしてその時僕は「今までのお前が悪い」と、今と同じように自分の子供に言えるのか?」と。
誰でも常識的に思いつく「幼いころに取り巻く環境がその子の人格・能力を左右する」という考え方。自分の子供への接し方を振り返ると、自信をもって子供の将来を見据えた教育をしているとは言えません。
衣食住で苦労させたくない、欲しい物を理不尽に我慢させたくない。自分の子供の頃と重ね、与えすぎているんじゃないか?それは、この子の人格・能力を形成していく上で悪影響となっていっているんじゃないか?そう思い始めると止まりません。
おもちゃ一つ買い与えるにしても、それは大量生産の既製品でしかなく、何かをつくる時本当の意味で「自分の中にしかないオリジナルなモノ」、0から1を生み出す想像力を狭めるんじゃないか?
決まったものをあるパターンの決められたところに当てはめるだけのものじゃ、1を10に見せる表現力を養えないんじゃないか?
親の用意したモノで学び、敷いたレールを歩いているようなやり方では、自分の力を信じる自信が身につかないんじゃないんだろうか?
「モノ」を与え、後に残るのは「モノ」だけ。
時には厳しくも、子供に「課題」を課し試練を与え、誰もが持ちうる能力を見つけてあげそれを育む道を示してあげることが必要だ。
子供達にかけがえのない人生の財産を自分の中で育んでもらうには、「愛情の与え方」を常に考えなければならない。
未来の「〇〇世代」を生み出していく責任の一端は常に「現在の親世代」にあるのだから。
誰が助けてくれるかを子供たちが自然に行き着く世界じゃないといじめはなくならない
こんにちは。
今気づいてみればいじめを受けてたのかもしれない曖昧な思い出を、楽しい思い出にすり替えることがある。MAmeeともうします。
先日こんなニュースを見ました。
「いじめ加害者といじめ被害者の和解の握手が原因でいじめが悪化」
このニュースを見てまず思ったことが、「幼稚園とかだけじゃなく中・高でもやってる風習なんだ」。そして内容を見ていくうちに、「握手」というその対策だか何だかわからない行為は、マニュアルに沿った勝手な教育的視点からくる、ただの一区切り感を出すものでしかないことがわかってきました。
「握手」は行為の意味として、和解や親睦のシンボルみたいな行為です。ですが子供たちに、「いじめ被害者」に強いているこの握手はまるで意味合いが違うものになります。そのニュースの最後に専門家のコメントでも似たようにまとめていましたが、握手とは調査し話し合い和解の後の最終段階なのです。
実状を理解せず表面的な加害者の反省を言質に取り、そのパスを教師が受け取りいじめ加害者へとノールックで投げつけます。この時点では、いじめ被害者にとっていじめの存在を教員に認知してもらったという安ど感が勝り現状の違和感に気づけません。
なんの保証も策もなく「反省している」「解決に向かっている」。
そして握手の儀式を行うとき、敵意を増した加害者と希望を抱き始めた被害者が顔を突き合わせ手を取り合います。その後、「ちくり」などと称されそれを加害者は周知し、悪意は伝染していじめは苛烈さを増していき、微かな希望を抱いた加害者は大人への失望、もう終わらないんだという絶望、孤独感に追い詰められていきます。
この被害者を追い詰めていくだけの現状、いじめの助長にしかならないマニュアルのような風習。
もうすでに末期と言えるでしょう。
戦後、未成年のいじめ認知件数、自殺は半分以上に減っていて世の中の対策が一定の成果を成しているようですが、それは単に時代の流れの一部として変化しているだけのことにしか思えません。
いい加減に本気で取り組むべきなんです。
いじめを受けた被害者がどうなるのか?悲惨な形で世間に知れ渡っています。
ではいじめをした加害者はどうなるのか?という問いに答えられるでしょうか?
僕は言葉に詰まってしまいます。
なぜなら犯した罪と向き合っている人間など微々たるものだからです。
罪を意識したもの、していないもの、共に「臭い物」として世の中への発信にブレーキを掛けているからです。
何を守るのか不透明で、気持ちが悪いほどの違和感を感じるこの現状は、「子供たちの未来のため」などという割に足元の現状から目を背け、過酷な現在が悲惨な未来をつくるということに気づかないその時代の大人たちに責があるとしか思えません。
いじめはなくなりません。ですが、何も対策を行っていません。
いじめはなくなりません。被害者が助けを求める拠り所がそこに無いというのは同時に「未然に防ぐ監視者」がいないという事だから。
いじめはなくなりません。今の教育施設はいわば犯罪率の高い地域に交番を置いていない、一部犯罪者と癒着しているような場所だから。
はっきり言って現職の教員にいじめを調査、解決していく「力」は無い。
業務量により時間が圧迫されるなどもっともなことも聞きますし、そりゃそうだとも思いますが。
そこではなく彼らにはそれを解決する「知識」「技能」はありません。
それでも未成熟な彼らは大人に頼るしかないのも事実。
どんな職場にも「担当」があります。
「防ぐ」「守る」「調査」「解決」これはもう専門職でないと対処などできません。
今のこの国は、教育施設にたった1枠いじめ案件専門の特化した人材を配置することもできないほど腐って弱ってしまっているのか?
妊婦の君を支えるために夫の僕が考える心の在り方
こんにちは。出産には立ち会いたい派。MAmeeともうします。
「“彼女”とは“遥か彼方の女”と書く。女性とは向こう岸の存在だよ、我々にとってはね。」
そう言ったのはアニメヱヴァンゲリヲンに登場する加治リョウジという人物だ。
この言葉は元は他人同士である男女が夫婦として生活する中で、
度々僕の胸に突き刺さってきた。
時間と共に馴染んだ考えは「折り合いをつける」という事。
必ずしも理解しあい分かり合う必要はないという事をお互いに受け入れあうという事。
そんな風に悟っていた気でいた僕ではあったが、やはり人生。
分岐点などそこら中にあり、僕もそのありがちな分岐に立つこととなった。
ありふれた大事件
嫁のお腹に第2子を授かったことだ。
これはとても喜ばしいもので、待ちに待った出来事であり、何の憂いもない。
だがこの出来事で、先述した「折り合いをつける」という今のスタンスに疑問を持つ。
この考えは自分の保身も大いに含んでいるからだ。
人生において「こう決めたから絶対こう」なんて固定観念は全く持って生産的じゃないしナンセンスの極みだろう。
生産的などと言っておきながら感情論になるけれど、何より「我が子を妊娠した妻」はオスとして何よりも優先すべき存在だ。
こう感じることのできる僕の固定観念は大事にしていきたい。
世の倫理観に沿える自分の常識に、意識が付いてく普通の人間に育ててくれた親にも感謝だ。
固定観念に関する深堀に興味がありましたらこちらの記事をご覧ください↓
妊婦の君をどう支えよう
自分とは別の命をそのお腹に宿した女性はまさしく“遥か彼方の女”。向こう岸の存在だ。
何より自分自身の内外面のコントロールが難しく、全ての変化に戸惑いを大きく感じているのは女性の方だろう。
言い方は妙だが、オスとして妊娠後の女性はもう一つの人格を宿したと考えていいと思う。
つまり何が言いたいかというと、
不安定なその場面場面ごとの“彼女”に寄り添う必要がある。ということだ。
波が発生する海は、その波を自分の意志で出しているわけじゃないし、その大きな波の中に身をさらしているのもまた僕ではなく“彼女”だ。
そんな光景を前に傍観している姿を見せてしまっては、打算的な話、幻滅させるだけだろう。
その失望は“彼女”に孤独感を与えてしまう事にもなりうる。
波を僕にぶつけてくれることも無くなり、互いの間には溝も何も生まれない「無」の状態になるだろう。
のちに感じてくれる強さであろう
「女は強い」という考えは間違いではないだろう。
事実、男性の身には想像もつかない変化の荒波に身を投じているわけだから、女性の強さは男性を凌ぐ部分がある。
けど男として夫として、そこに甘んじる気は無い。
ずうずうしく支えたがる本能と強さが男にも備わっているのだから。
そして「あの時はありがとう。」って言われたいいやらしさも持っているから。