誰が助けてくれるかを子供たちが自然に行き着く世界じゃないといじめはなくならない
こんにちは。
今気づいてみればいじめを受けてたのかもしれない曖昧な思い出を、楽しい思い出にすり替えることがある。MAmeeともうします。
先日こんなニュースを見ました。
「いじめ加害者といじめ被害者の和解の握手が原因でいじめが悪化」
このニュースを見てまず思ったことが、「幼稚園とかだけじゃなく中・高でもやってる風習なんだ」。そして内容を見ていくうちに、「握手」というその対策だか何だかわからない行為は、マニュアルに沿った勝手な教育的視点からくる、ただの一区切り感を出すものでしかないことがわかってきました。
「握手」は行為の意味として、和解や親睦のシンボルみたいな行為です。ですが子供たちに、「いじめ被害者」に強いているこの握手はまるで意味合いが違うものになります。そのニュースの最後に専門家のコメントでも似たようにまとめていましたが、握手とは調査し話し合い和解の後の最終段階なのです。
実状を理解せず表面的な加害者の反省を言質に取り、そのパスを教師が受け取りいじめ加害者へとノールックで投げつけます。この時点では、いじめ被害者にとっていじめの存在を教員に認知してもらったという安ど感が勝り現状の違和感に気づけません。
なんの保証も策もなく「反省している」「解決に向かっている」。
そして握手の儀式を行うとき、敵意を増した加害者と希望を抱き始めた被害者が顔を突き合わせ手を取り合います。その後、「ちくり」などと称されそれを加害者は周知し、悪意は伝染していじめは苛烈さを増していき、微かな希望を抱いた加害者は大人への失望、もう終わらないんだという絶望、孤独感に追い詰められていきます。
この被害者を追い詰めていくだけの現状、いじめの助長にしかならないマニュアルのような風習。
もうすでに末期と言えるでしょう。
戦後、未成年のいじめ認知件数、自殺は半分以上に減っていて世の中の対策が一定の成果を成しているようですが、それは単に時代の流れの一部として変化しているだけのことにしか思えません。
いい加減に本気で取り組むべきなんです。
いじめを受けた被害者がどうなるのか?悲惨な形で世間に知れ渡っています。
ではいじめをした加害者はどうなるのか?という問いに答えられるでしょうか?
僕は言葉に詰まってしまいます。
なぜなら犯した罪と向き合っている人間など微々たるものだからです。
罪を意識したもの、していないもの、共に「臭い物」として世の中への発信にブレーキを掛けているからです。
何を守るのか不透明で、気持ちが悪いほどの違和感を感じるこの現状は、「子供たちの未来のため」などという割に足元の現状から目を背け、過酷な現在が悲惨な未来をつくるということに気づかないその時代の大人たちに責があるとしか思えません。
いじめはなくなりません。ですが、何も対策を行っていません。
いじめはなくなりません。被害者が助けを求める拠り所がそこに無いというのは同時に「未然に防ぐ監視者」がいないという事だから。
いじめはなくなりません。今の教育施設はいわば犯罪率の高い地域に交番を置いていない、一部犯罪者と癒着しているような場所だから。
はっきり言って現職の教員にいじめを調査、解決していく「力」は無い。
業務量により時間が圧迫されるなどもっともなことも聞きますし、そりゃそうだとも思いますが。
そこではなく彼らにはそれを解決する「知識」「技能」はありません。
それでも未成熟な彼らは大人に頼るしかないのも事実。
どんな職場にも「担当」があります。
「防ぐ」「守る」「調査」「解決」これはもう専門職でないと対処などできません。
今のこの国は、教育施設にたった1枠いじめ案件専門の特化した人材を配置することもできないほど腐って弱ってしまっているのか?